カテゴリー
未分類

実家での宴会と踊り

実家へ戻った翌日は、嫁の姉妹が、5人揃いました。5人とも女です。近所の人と嫁の友人も集まり、宴会でビールとウイスキーを少し飲み、おいしいラオス料理を食べました。

雨季ということで、近くの川は、どこも洪水となり、至る所の道路まで、氾濫しています。そこで、網で魚を捕るのですが、この魚は、淡水魚でとてもおいしいです。この時期、魚は市場で買うものではなく、自分で捕るものだそうです。

この洪水で氾濫したところで、水を浴びます。女同士で、水の中に、突き落として、笑って遊んでいます。とても、楽しそうです。

夕方から踊りが始まりました。道路で、カラオケ機器を鳴らして、姉妹縁者で踊ります。雨が降っていたのですが、全くお構いなしです。
嫁も、とても、楽しそうに踊りました。親姉妹の絆は、とても、強いようです。

こうして、姉妹が集まることができるのは、数少ないようです。今度は、いつ、会えるのでしょうか。

カテゴリー
未分類

ビエンチャンへ行く

翌日の朝になって、朝ごはんを食べると、嫁が、「これからビエンチャンへ行く、私が、ビエンチャンへ一緒にいくか、実家に残るかは、自分で決めて良い」と言うので、私は、一緒に行くことにします。

近所の人も一緒に行くことになり、ビエンチャンへ行く長い道のり、嫁は、近所の人と話をずっとしていました。私以外とは、どこでも、いつでも、よく話をする嫁です。私は、無口な方なので、あまり、話をしません。

バスの中で、日本人旅行者から声をかけられました。その人は、一人で、ヒッチハイクで、世界一周旅行をしていると言っていました。ベトナムでは、ヒッチハイクがうまくいかなかったとか、今日は、私の誕生日だとか、言っていました。

ビエンチャンでバスから降りるとき、私は、逃げるようにして、その日本人旅行者から離れました。ヒッチハイクを私は好きでは無かったからです。ぼったくりに会うことも嫌ですが、日本よりも貧しい国で、ただ乗りをすることも、私は好きではありません。

ビエンチャンで、嫁は、仕事をいろいろ済ませました。時間はあっという間に過ぎて行きました。私は、ワットタイ国際空港へチケットを買いに行きたかったのですが、そんな時間はありません。

嫁にチケットのことを言うと、「あなたは、どうしたいのかと、聞いてきます。」嫁は、チケットを新しく買うのは無駄だし、ベトナムから入れるだろうと言います。ベトナムのバス会社に電話しても、入れると言います。私は、ラオス語が話せませんので、嫁に話のやり取りを任せていましたが、どうも、無理があったようです。このとき、私自身どうすれば良いか分かっていませんでした。

翌日、慌ただしく、あちらこちらへ行き、ビエンチャンから実家へ戻りました。

カテゴリー
未分類

ラオスへの里帰り

嫁に在留資格が出て、来日して数か月後に、日本は、盆休みになりました。私と嫁は、嫁の実家ラオスへ、里帰りをしました。

成田空港から、ベトジェット航空でベトナムのハノイへ行き、ハノイから、陸路、ラオス国内へ入る道を選びました。飛行機の運賃を少し、節約できて良いと思ったからです。

しかし、成田空港のベトジェット航空のチケットカウンターで 。ベトナムに過去30日以内に入国が無いかどうか、聞かれました。私は、ベトナムに入国したことは無かったので、そこは、チケットが発行され、問題なく、出発となりました。しかし、そのことで、私は、帰りの陸路、ベトナム国境で入国を拒否されることを心配し始めました。スマートフォンのインターネットで調べたところ、どうも、帰りは、ベトナムへ入国できない可能性が高いことを知りました。

私は、空港での待ち時間、長い時間をかけて、新しいビエンチャンからハノイまでの新しいチケットを手に入れようとしましたが、いつも使うクレジットカードがロックがかかったままで、新しいチケットが買えません。他の1枚のクレジットカードは残高不足のため、もう一枚別のクレジットカードは、なぜか、インターネットでの決済ができません。

不運が重なったとはいえ、私の準備不足でした。しかし、ビエンチャンでチケットを買えば良いと思い、チケットをインターネットで買うことは諦めました。

陸路、ベトナムのビンからラオスへの国境を超える際、私は、バスを見つけることができず、タクシーに乗りましたが、ラオスのラクサオまで、向かう約束でしたが、ベトナム国境で、タクシーから放り出されました。インターネットで国境で放り出される日本人を見ていましたが、私も、国境で放り出されました。運転手は最初から、そうするつもりだったと思いますが、国境の検問の人と話をして、これ以上無理だと言って、体裁を取り繕います。しかし、ベトナム人の商売の仕方は嘘が多いという印象があります。ベトナムで、道を尋ねたことは、ありませんが、日本よりも厳しいだろうと思います。

バスから降り、実家へ向かう途中の村で、ソンテウを待っていたときのことです。ヨーロッパ人風の男が、声を荒げて、ソンテウの運転手に料金の不満を訴えています。その場に居た私の嫁は、運転手を助けるべく、笑顔を作り、料金の説明をしていました。ラオス人の間には、助け合いの精神があります。旅行者は、現在地を間違えて認識していました。そこに居たラオス人の現地の人たちは、皆、とても不快そうにしていました。私もとても不快でした。50バーツくらいで、大声をあげることが、とても強欲に、私には思えました。ヨーロッパ人風の男の連れの女性が、今度は、待ち時間が不満らしく、少し、お金を増やすから、直ぐに出発してくれと、運転手に言い出しました。運転手から断られましたが、何人もの乗客が出発を待っている状況での、この旅行者のわがままぶりに、私はとても不快そうな顔をしました。私は、嫁に大丈夫だとあやされました。ハノイに到着してから、1日かかりましたが、その日の夕方、私と嫁は、実家へたどり着きました。

私にとっては、4度目の嫁の実家です。私は、両親と一緒に暮らしていて、日本に実家はありません。ラオスの嫁の実家は、今となっては、私にとっても、心のふるさとです。私は、この場所をとても愛しています。

カテゴリー
未分類

嫁との新婚生活

東京へ帰ってきてからは、毎日一緒に暮らせるようになりました。ラオス政府と、日本政府には、手続きで随分待たされましたが、その分、一緒に暮らせることがありがたいと思えます。

今回は、嫁が、短期の滞在で、ラオスへ帰るという不安が、ありません。毎日が幸せな日々です。

嫁は、炊事、洗濯の他、私の仕事も手伝ってくれます。
毎日、夕飯を、父と母と嫁、私の4人で、一緒に食べますが、嫁の存在で、すっかり明るい雰囲気になりました。

カテゴリー
未分類

嫁の在留資格が下りる

在留資格の申請から3か月程で、在留資格が下り、ラオスの日本大使館から、嫁の入国ビザが発給されました。

私は、タイのドンムアン空港まで、嫁を迎えに行きました。ドンムアン空港のフードコートで、待ち合わせて、少し、食事をしました。

空港の6番出口から、A1バスに乗り、モーチット駅まで、行き、電車に乗りました。日本人が多く居住すると言われるプロンポン駅で降り、駅前のエンポリアムデパートのフードコートへ行き、食事をしました。バンコクには、綺麗なデパートとフードコートが、たくさんあります。

食事をした後、アリゼホテル(Arize Hotel)スクンビットという名のホテルに泊まりました。1泊5,000円くらいで、とても広いホテルでした。

翌朝は、ルンルアンという有名なタイラーメンの店で、クイッティアオを食べました。おいしかったです。オレンジジュースもおいしかったです。プールで泳いだ後、ホテルをチェックアウトし、近くのレストランで、カオソーイを食べました。

その後、タクシーで、サトーン駅まで行き、チャオプラヤー川を上流に向かい、カオサンの近辺で船を降りました。

夕方に、有名店で、トムヤンクンを食べましたが、それほど、おいしく感じませんでした。カオサンで一泊し、翌朝は、船で、ワットプラケーオを見に行きました。

タクシーで、日本人街として有名なタニヤ通りへ行き、ルンピニー公園まで、歩きました。

ルンピニー公園から、タクシーでドンムアン空港へ行き、スクート航空で、成田空港へ向かいました。スクート航空は、片道一人10,000円くらいでした。

カテゴリー
未分類

タイのパタヤへ②

5日目は、ホテルを出て、船でバンペーまで戻りました。そして、パタヤの旅行会社の事務所で、ロトゥを待ちました。嫁は、バンコクまで、直接、ロトゥーで向かうことを主張しました。私は、パタヤのバスステーションまで、行きと同じロトゥで戻り、パタヤのバスステーションからバンコクのエカマイバスステーションまで、向かうことを主張し、嫁と少し、揉めました。私は、パタヤまでのロトゥのチケットを、すでに、買っていました。パタヤは、バンコクまでの途中にあるので、ケチな私は、せっかく買ったパタヤまでのチケットを無駄にしたくなかったのです。しかし、今、思うと、ロトゥで、待たされる時間が長かったので、チケットを放棄してでも、バンコクまで向かうべきだったと思います。
3,000円程度のチケットのために、3時間以上無駄になりました。お金が大事か、時間が大事か、今でも微妙なところです。

エカマイからは、嫁に、電車に慣れてもらおうと、ホテルに近い、サパーンタクシン駅まで、電車に乗りました。そして、サパーンタクシン駅から、夜道を、ホテルまで歩きました。夜道で、ホテルまでの道は、ホームレスが寝ていたりして、とても危険なように感じました。タクシーを使わず、危険な道を歩く私に、嫁が、とても怒っていました。私の感覚は、日本人の感覚であり、タイでは、一般的ではありません。嫁の方が、よく分かっています。他のバスの乗客がそうしたように、エカマイ駅から、タクシーに乗るべきでした。
タイは、日本と比べて、電車が高くて、タクシーが安いように感じます。二人いると、電車もタクシーも同じくらいの運賃だと思います。タイ語が話せない私には、少し、タクシー恐怖症がありました。

その日は、ナガレジデンスというところに泊まりました。1泊4000円くらいで、インターネットで評判の良いホテルでした。泊まってみて、綺麗なホテルでした。

6日目は、どこかへ行くあては、ありませんでした。サパーンタクシン駅まで、歩き、そこからすぐ近くのサトーン駅から船で、チャオプラヤー川を上流に向かいました。チャオプラヤー川に浮かぶ船の上からの景色は、お寺がたくさん見えて、とても綺麗でした。私たちは、船から降りて、デパートのフードコートで食事をすると、サトーン駅へ向かいました。タイマッサージを受けて、その日は終わりました。この日もナガホテルです。

7日目は、朝5時頃起きて、ドンムアン空港まで行きますが、嫁の強い勧めで、タクシーに乗りました。高速道路に乗り、30分から1時間くらいかかったと思います。運賃は高速料金も含めて、400バーツくらいでした。日本よりは、格段に、タクシー料金が安いです。

空港から私は、日本へ、嫁はラオスへ向かいました。この瞬間はさみしかったですが、タイ旅行そのものは、とても、楽しかったです。私にとっては、30年ぶりの旅行です。格安航空のエアアジアと、嫁が一人で、タイのドンムアン空港まで、来てくれたことによって、実現した旅行でした。そして、パタヤという観光地は、私に、自信を、与えてくれました。私が海外の観光地へ、旅行へ行くなんて、今まで想像すらしなかったことでした。私は旅行が好きになりましたし、こんなに楽しい世界があることを、それまで、知りませんでした。

日常を離れて、こんなワクワクする楽しい経験ができるのは、嫁がいるからに他なりません。とても、性格の良い嫁です。今までに、ストレスを感じたことはありません。私は、国際結婚を強くおすすめします。

カテゴリー
未分類

タイのパタヤへ①

私には、どうしてなのか、分かりませんが、ラオス人が、日本へ入国するのは、とても、難しいです。反対に、日本人が、ラオスへ入国するのは、15日までなら、パスポートだけで入ることができます。ビザを取る必要はありません。
不公平と言えば、不公平ですが、国家間の取り決めですから、仕方ありません。
ラオス側からすると、ODA援助を日本から貰ってきたことと、日本の方が経済的に発展しているから、日本人旅行者を短期間なら受け入れても良い。不公平やむなし、ということなんだと思います。

実際に、人口密度が低くて、海を持たない内陸国のラオスには、経済発展しにくい要素を感じます。日本の過疎地域より、さらに、条件が悪い感じがします。

嫁は、日本へ入ることが、できないため、私は、タイのパタヤへ旅行へ、行き、嫁に会うことにしました。嫁は、ラオスから、タイのドンムアン空港へ来ます。私と嫁は、ドンムアン空港で、合流しました。旅行慣れしていない嫁にとっては、一人で、飛行機に、乗り、ドンムアン空港まで、来ることは、とても、勇気のいることでした。

私と、嫁は、ドンムアン空港のフードコート(MAGIC GARDEN)で、食事をしました。広くて、さまざまな料理を選ぶことができます。空港内の食堂であるにもかかわらず、値段も安いので、私は、ここのフードコートが大好きです。

この後、バスで、バンコクのモーチットにあるバスステーションへ向かいます。
嫁は、ラオス人ですが、タイ語も話すことができます。ラオス語とタイ語は、似ているそうです。そのうえ、ラオスでは、タイのテレビ放送を見ることが多いそうです。嫁がタイ語を話せるので、タイでは、言葉に困ることはありません。

空港の、6番出口を出て、A1バスに乗り、モーチットバスステーションで降りました。30分くらいかかり、運賃は、一人30バーツくらいだったと思います。

モーチットバスステーションから、パタヤまでは、ロトゥと呼ばれる小さめの乗り合いワゴン車に乗りました。2時間くらいかかり、運賃は一人150バーツでした。

パタヤのどこかで、ロトゥを降りました。その後、予約したホテルまで、ソンテウと呼ばれるトラックに屋根をつけた車に乗りました。10分くらいで、二人で150バーツでした。

私たちは、バブーナビーチフロントリビングホテルという名前のホテルに、3泊しました。海に面した通り沿いにあるホテルで、部屋から海を見ることができます。1泊6000円くらいでした。このホテルはとても素敵でした。朝食はビュッフェで、デザート、果物があり、料理も、おいしかったです。部屋から海が見れるので、とても、贅沢な気分で、海を見ていました。

パタヤの海の良いところは、海に、船がたくさん浮かんでいるところです。それは、賑やかで、他の海には無い魅力です。自分が観光地に居るという、気分にさせてくれます。
パタヤは東南アジア屈指の観光地だと思います。お金と、時間が許せば、私は、長期滞在したいです。

パタヤに到着して、2日目、私たちは、有名な観光地であるラン島へ行きました。パタヤから、船に乗り、1時間ほどのところです。運賃は、50バーツくらいだったと思います。
私たちは、海に入り泳ぎました。ラン島で、食事もしましたが、海産物が新鮮でした。

3日目は、タイマッサージをしてもらい、寝ていました。1時間200バーツでした。

4日目は、サメット島へ向かいました。ロトゥで、パタヤから1時間30分くらいだったと思います。ホテルまで、迎えに来てもらい、船賃も入れて、片道一人300バーツでした。

私たちは、バンペーで、ロトゥを降りて、船に乗りました。
ミニーシービューリゾートというホテルに泊まりました。
1泊4000円くらいでした。
バンガロータイプで、部屋が、他の部屋から独立していました。食事ができるところが無く、部屋そのものは、普通でしたが、海の眺めは、絶景でした。サメット島でも、屈指の絶景だと思います。

嫁は、バイクを借りて、サメット島を一周したいと言いました。私は、心配性なので、バイクに乗ることが怖かったので、泳いだ後、バイクに乗ろうと嫁に言いました。一番大きなビーチであるサイケーオビーチで泳ぎました。その後、日が落ちたため、バイクに乗ることはやめました。海辺のレストランで食事をしましたが、とても、おいしかった記憶があります。

今、思うと、バイクでサメット島を一周することが、さまざまな景色が見れて、楽しかったんだろうと、少し、後悔しています。

カテゴリー
未分類

嫁の来日

嫁の実家で、結婚式を挙げた後、私は、嫁と一緒に、日本へ向かうことになりました。嫁には、まだ、日本の在留資格が、無いので、観光ビザでの30日間の日本入国です。

私と嫁は、実家からビエンチャンへ向かい、ビエンチャンのワットタイ国際空港から、タイのドンムアン空港へ向かい、ドンムアン空港で、6時間ほど滞在してから、日本の成田空港へ向かいます。

成田空港から、京成スカイライナーに乗り、東京の私の家に、嫁と一緒に帰ってきました。嫁は、私の父と母に初めて会いました。

嫁が日本にいる30日間、私は、旅行気分でした。
日本の役所に、婚姻届けを出しに行き、日本でも、法律上、正式な夫婦となりました。その後、嫁の在留資格申請をしました。嫁と二人で、東京湾アクアラインのサービスエリア海蛍へ、遊びに行きました。

とても、楽しい日々でしたが、30日間は、あっという間に過ぎ、嫁は、在留資格が下りるまで、ラオスへ帰ることになりました。私は、成田空港まで、嫁を見送りに行きました。嫁が出発ゲートを入っていき姿が見えなくなると、とても、悲しかったことを今でも覚えています。

カテゴリー
未分類

結婚式

ラオス政府から、正式な結婚証明書が発行されたので、私は、ラオスの嫁の実家に、結婚式を挙げに行くことになりました。日本と同様、ラオスでも、この結婚式に、法律的な意味合いは無いと思います。結婚証明書が発行されて、私と、嫁は、ラオスの法律上、正式な夫婦となったことが証明されています。

結婚式は、嫁の実家で行われました。実家の庭には、借りてきたテーブルと椅子が、ぎっしりと、並べられています。小さな村に、300人以上の人があつまり、私たちの結婚を祝福してくれました。

私にとっては、とても、幸福な時間でしたが、私は、多くのことを覚えてはいません。ただ、嫁が、笑顔で、ラオスの伝統衣装を身に着けていたことだけを覚えています。

ラオスの伝統衣装は本当に素敵です。親類縁者ばかりで、構成される小さな村で、嫁は、結婚式の主役でした。主役が、伝統衣装を着たことで、強固なアイデンティティが生まれ、結婚式は、とても、華やかなものになったと、私には、感じられました。

それは、私が持っている日本人としてのアイデンティティよりも、もっと、強固なものだろう。嫁が、この村を、生涯愛し続けることは、疑うべくも無い。

カテゴリー
未分類

嫁の実家へ行く

サイン式を終えた後、私と嫁、嫁の両親の4人は、嫁の実家へタクシーで向かいました。

行く途中に、フランスパンや、果物、野菜などを買いました。ラオスの食文化は、南国特有の豊かさがあります。実家へ向かう途中に、嫁から、子供は、何人欲しいか、聞かれました。私は、2~3人欲しいと答えました。嫁は、子供を医者とか銀行員にしたいと、私に、言いました。私は、それは、良いなと答えました。ラオスは、現状、貧しい国なので、子供の頃から、役人とか、公務員を目指す人が多いようです。私は、計画性がとても豊かな嫁を、とても頼もしく思いました。

嫁の実家へ行くと、今回は、綺麗な家が、新しく建てられていました。もちろん、私が建てたわけでは、ありません。

嫁は、この5年くらいかけて、働いて貯めたお金で、実家の親のために、家を新築しました。嫁は、この大家族の働き頭だったようです。

私と嫁は、実家の近くの川で、泳ぎました。大自然の中で、自然と戯れるのが、ラオスのスタイルです。

夜になると、嫁は、親しい友人を3人を連れてきて、私に、紹介してくれました。

私たちは、鍋料理を食べながら、ビアラオと呼ばれているビールを何本も飲みました。とても、素朴で、優しそうな人たちでした。彼らのことを、私は、生涯忘れることはありません。

翌朝、日本へ帰る私を、嫁は、ビエンチャンの空港まで、見送ってくれました。実家からビエンチャンまで、往復すると帰りはバスなので12時間以上かかります。しかし、嫁が、ビエンチャンまで送ってくれたので、私には、とても、楽しい旅行となりました。

帰りの山道では、車が止まって行列を作っていました。ビエンチャンから私たちを乗せてきたタクシーは、帰りのこの山道を車の行列のわき道を通って登って行きました。車の行列の原因は、大きなトラックが、砂利道にタイヤがはまり、動けなかったことが原因でした。

私たちのタクシーの運転手は、このわき道を、私たちを降ろすと、さらに、砂利道を登ろうとしました。途中でタイヤがすべったので、私は、タクシーの後ろから、車を押しました。嫁も、一緒に、車を押しました。嫁が車を押し始めると、そこに居たラオス人たちも、手伝ってくれました。車が自力で登ることができるようになり、私と嫁は、手伝ってくれた人たちに手を合わせて、感謝の言葉を言いました「コプツァイ、ライライ」。勇敢な運転手と、車を押すのを手伝ってくれた、優しいラオス人たちのおかげで、私たちは、ビエンチャンへ辿り着くことができました。

私は、ラオス政府から、結婚証明書が発行されるのを、日本で、待つことにしました。