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サイン式

ラオスのビエンチャンでの婚約式から、数か月が経ち、ラオス政府から、結婚の許可が出ました。あとは、ラオス政府が用意する書類に、サインをすれば、正式な夫婦としてラオスでは、認められることになります。日本や、欧米では、事実婚という概念がありますが、ラオスでは、婚前交渉が禁止されています。ラオスでは、サインして初めて、警察を恐れずに、夫婦が一緒に行動できます。

私は、再び、ラオスのビエンチャンへ行きました。

嫁と嫁のご両親と合流して、ビエンチャンの都庁舎へ行きました。私たちは、サインをして、ラオスでは正式な夫婦となりました。サインをして、私は、とても、うれしかったことを今でも覚えています。長い期間でしたが、私との約束を守って待っていてくれた嫁に、私は、とても、感謝をしました。

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婚約式

私とAさんは、村役場を出て、一度、宿泊先のホテルに戻った後、ビエンチャン近郊にある婚約式の会場へ向かいました。

式場に到着すると、嫁のご両親と姉妹、友人たちが居て、私たちの婚約を祝ってくれました。

一度は、結婚を諦めていた私にとっては、とても華やかで素敵な場所でした。嫁も、綺麗な服を着ており、若くて綺麗です。私は、夢を見ているような気分でした。

おいしい料理もあふれていました。嫁は、サーモンの刺身まで、大量に注文していました。刺身は、まだ、少し、凍っていましたが、少し、凍っている方が、内陸に位置する暑い国ラオスでは安心のようです。大量の刺身は、高かったに違いありませんが、嫁は、肝っ玉が、据わっています。

指輪交換のときは、私は、感極まってしまい、嫁の頬にキスしてしまいました。とても、うれしかったことを、私は、生涯忘れることは無いでしょう。

途中からは、村役場で、会った村長さんも、花束を持って、祝福に来てくれました。そのとき、私は、随分、人付き合いが良い村長さんだと思いました。
しかし、今、思うと、村長さんは、仕事としても来てくれたのだと思います。婚約式が確かに行われるかどうか、人身売買の疑いが無いかなど、村長さんは、確認をしていたに違いありません。村役場では、結納金を渡すところまで、確認しました。自分の村人を守るんだという、村長さんの熱い思いが、印象的でした。
仮に、婚約式を挙げなかったとすると、村長さんの許可は出なかったと思います。
ラオスで外国人男性がラオス人女性と結婚する場合、婚約式を挙げることが、結婚するための必要条件なんだと思います。

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ラオスの村役場

日本へ帰国してから、2週間程で、私は、書類を揃えて、再び、ラオスのビエンチャンへ向かいました。村役場の村長さんに結婚の許可をもらい、婚約式を挙げるためです。

最初、村役場に居る村長さんを、訪ねました。村役場には、嫁の父、母、立会人が集まりました。村長さんは、女性でした。熱い性格の人で、嫁に、結婚する意思があるかどうかを、何度も何度も確認しました。

そして、村長さんの前で、嫁の実家に結納金を収めるように、言われ、私は、結納金を収めました。杯に、結納金を入れて、嫁と私は手を合わせました。2週間前と違い、嫁の父も、上機嫌でした。私にとっても、とても、うれしい瞬間でした。

村長さんは、私に言いました。「人の気持ちは変わることがある。もしも、あなたが、この婚約を破る場合、結納金はあなたには返さない。もしも、嫁に新しい恋人ができた場合、婚約は消滅して、結納金はあなたに返す。」

「私は、承知しました。それで、良いです。」と答えました。

ラオスでは、若い女性が、結婚という名の下に、実質的な人身売買に遭うことがあります。本人と両親だけでは、被害を食い止めるのに不十分で、村長さんが、ラオス人嫁のため、後見的に介入してきます。

村長さんには許可をしない権限もありましたから、私は、とても、うれしかったです。

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日本へ帰国する

嫁の両親が、私たちの結婚を承諾してれくたことで、大きな障害は無くなりました。しかし、ラオス政府の許可が必要ですので、日本で同居できるようになるまで、まだ、手続きに時間が、かかります。

日本へ帰り、私は、必要書類を揃えなくてはなりません。

私は、その日は、嫁の実家近辺のゲストハウスに、泊り、翌朝、嫁と、Aさんたちと、ビエンチャンへ向かいました。

Aさんは、旅行のようなものだと、言ってくれましたが、私にとっては、生涯忘れることができない、とても、素敵な旅行となりました。

ビエンチャンのワットタイ国際空港で、嫁とAさんに、見送ってもらい、私は、一人、日本へ帰国しました。

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嫁の両親に会う

嫁が結婚の承諾をしてくれたので、私は、嫁の両親に会って結婚の承諾を得るために、嫁の実家へ向かうことになりました。

翌朝、Aさんが、私の宿泊するホテルに、8人乗りのワゴン車で、ワゴン車の運転手とともに、迎えにきてくれました。私たちは、ホテルを出発すると、嫁と合流し、そのまま、実家へ向かいました。嫁は、合流するとすぐに、実家へ電話をしました。

嫁の実家は、ビエンチャンからは、遠いところで、車で、5時間程度もかかるところでした。

実家へ向かう途中、山を越したところで、車のエンジンが止まってしまいました。山を登るのは、車のエンジンに大きな負担をかけたようです。

近くの用水路から、運転手が、水をくみ、冷却水タンクに水を入れました。冷却水タンクの水は、熱で、水が沸騰しています。

私にとっては、見たことが無いような光景ですが、運転手は、水を入れて、熱をさまし、再び、エンジンがかかると、笑顔で笑っています。

なんとも大らかな人たちだなと思い、私は、ポーぺニャンと言ってしまいました。ポーぺニャンとは、ラオス語で、「どうってことない」という意味です。

ラオス人嫁の大らかさに、私は、いつも癒されます。

嫁の実家につくと、嫁の両親と姉が居ました。

私は、古酒のブランデーを父親に、お土産として、渡しました。

父親は、顔がこわばっており、とても、怖い顔をしていました。

こんな怖い顔をする人を、私は、日ごろ、見たことが無いほどです。私は、嫁よりもずっと年をとっており、理想的な夫では無いことは、分かっていましたが、厳しい現実を、改めて、思い知りました。Aさんが、かなり、長い時間をかけて、話をしてくれました。話の内容はラオス語なので、私には、分かりませんでしたが、人身売買のような危ない話ではないかと、嫁の父親が、疑ったこともありました。

私は、テーブルに頭をこすり付けて、「娘さんを大切にすることを約束します」と、父に訴えました。深く頭を下げることが、私の知る限り、最善の日本スタイルです。

結局のところ、嫁の意思が尊重される形で、父親がやむを得ず、承諾をしてくれました。

私は、父親から、「嫁と私の性格が合わなかったら、いつでも、ラオスに返してくれ。」と言われました。私にとっては、厳しい言葉でしたが、父親のあるべき姿を見たような気がしました。娘を必死になって守ろうとする美しい姿です。

美しい姿でしたが、同時に、とてつもなく怖い顔でした。そして、嫁が、嫁の家族からとても大切にされ、愛されていることが、私には、分かりました。私は、結婚を承諾してくれたこの父親に感謝しました。もしも、あのとき、嫁の父親が反対のままだったら、私は、嫁と結婚できなかったに違いありません。

こうして、私は、この家族の大切な宝物を貰うことになりました。

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嫁との出会い

今から、数年前の秋頃、私は、ラオスのヴィエンチャンのワットタイ国際空港に降り立ちました。

私は、ラオス人女性とお見合いをするため、飛行機に乗り、ラオスへ向かったのです。空港に降りると、結婚相談所のスタッフの方(これ以降Aさんとします)が、迎えに来てくれていました。そして、Aさんは、私をホテルまで、送ってくれました。

ホテルで一晩寝ると、翌朝、再び、Aさんが、ホテルまで、迎えにきてくれて、お見合いの会場まで、連れて行ってくれました。

お見合い会場に行くと、そこに、嫁が居ました。

私は、とても緊張していました。

私がとても緊張していたのは、自分に自信がないことが原因です。他に理由はありません。嫁に結婚を断られるのではないかと、とても、心配でした。私は、もう50歳を過ぎており、日本では、若い女性と結婚するには、ほとんど不可能な年齢です。

自己紹介では、必死になって、自分をアピールしました。

私は、ラオス人と同じように、仏教徒になるし、大抵のことなら、なんでもやると、嫁とAさんに言いました。

私は、それだけに止まりませんでした。私は、どうしても結婚してほしいと必死なあまり、自分の年収を少し、多めにふかして、嫁とAさんに、申告してしまいました。

今となっては、詐欺に近いようなことをしてしまったと、反省しています。私は、一生かけて、なんとか、この償いはしたいと思います。

私の予想に反して、嫁は、私との結婚に意欲的でした。

それから、私と嫁とAさんは、レストランへ行きました。Aさんは、私に関して質問がないかどうか、嫁に聞いてくれました。嫁は、私の自己紹介の書類を見ただけで、「この男のことは、分かっている。酒もタバコもやらない。それ以外に聞くことは、何も無い」と答えました。私は、それ以上、質問攻めに合うことはありませんでした。嫁は特にそうなのですが、ラオス人は、細かいことをあまり気にしません。

レストランを出て、パトゥーサイ(凱旋門)と言われる観光地へ、デートに行きました。そこで、写真を取り、ヴィエンチャンで一番大きなデパート(タラ―トサオ)の喫茶店へ入りました。

喫茶店で、ココナッツの実にストローがさしてある飲み物を私は、注文しました。私が、ココナッツジュースを全部飲むと、嫁は、スプーンで、ココナッツの白い実を削り、私の口に、スプーンで入れて、食べさせてくれました。

私は、面倒見のとても良い、この嫁を、とても、気に入りました。私は、必死でしたので、婚約式を1日でも、早く、挙げたいと、言いました。

私の言葉を聞いたAさんは、嫁に、気持ちを確認しました。そして、婚約式の日取りが、その日から16日後に、決まりました。

こんな重大なことを一瞬で決めるなんて、ラオス人は、なんとも、潔良いなと、私は、思いました。同時に、婚約が決まり、とても、ホッとしました。

大らかで、とても家族思いの優しいラオス人嫁には、本当に癒されます。

私は、このお見合いのときに、初めて、海外の地を踏みました。不慣れなせいで、勝手が分からず、不安もありましたが、ラオスで、お見合いをするということに、とても、意義があったと思います。日本人は、ビザなしで、ラオスへ入国できますが、ラオス人である嫁が、日本へ来ることは、事実上出来ないからです。

そして、嫁との出会いは、物心ついてからの私にとって、最も重要な出会いであったと思います。とてつもなく大きな宝物を私が手にした瞬間です。

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結婚の喜び

私は、今、喜びの絶頂にいます。

それは、このまま、時間が止まって欲しいと思うほどです。

年齢も50歳を過ぎ、結婚を諦めていた私は、結婚相談所を通じて、ラオス人の嫁に出会いました。そして、嫁と出会い、結婚したとで、私の人生は、劇的に変わりました。

ラオス人の性格は、とても、明るく、大らかで、人を思いやります。仏教徒で信心深く、慈悲深いです。貧しさのなかで、育ってきているので、現実主義者でもあります。私の嫁は、まだ、25歳と若いですが、わがままも言いませんし、愚痴も言いません。この優しく明るい性格に、私はとても癒されます。

私の嫁は、特に、性格が良いですが、それは、結婚相談所の企業努力にも感謝すべきことかもしれません。私は、結婚相談所の名簿に登録されている多数の女性の中から、嫁を選びました。
もしも、多数の女性の中から選ぶという過程が、無かったとしたら、今の結果は違っていたでしょう。結婚相談所を通じてお見合い結婚することは、ロマンチックではありませんが、良い相手を選ぶという点では、合理的です。

私は、ラオス人と国際結婚をして、それも、結婚相談所の協力を得たことで、 とてつもない幸運を手に入れたと思っています。 自分が50歳過ぎであるにもかかわらず、若くて性格の良い美人妻と結婚できたからです。

現在、私と嫁、私の父と母、4人で、東京で、同居していますが、嫁が日本きてから、家族内が明るくなり、内輪喧嘩もなくなりました。嫁を中心にして結束力が強くなった感じです。

今となってはもう、嫁のいない生活は、私には考えられません。嫁がいることで、毎日が幸せであり、生きがいも増えました。孤独と向き合うことは無くなり、旅行をしてみたいという気持ちにもなります。

最近になり、嫁が、妊娠していることが分かりました。こんなに幸せな上に、子供まで持つことができるなんて、結婚を諦めていた私には、夢のようです。